2016年01月28日

戦国・真田概論 その2 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

新府城15.JPG
新府城跡

真田幸隆は、信玄が死去した翌年に没する。
家督は、長男・真田信綱が継ぐ。
三男・昌幸は、その前に、信玄の命により、絶えていた武藤家の家督を継いでいた。
信玄の死去に伴い、家督は、武田勝頼が継いでいた。
武田勝頼は、戦国最強と謳われた、父・信玄を超える版図を築いた名将であったが、織田・徳川軍と対峙した、長篠の戦いで、多くの名将を失いながら敗走した。
この時、従軍していた真田信綱、真田昌輝兄弟も、討ち死にを遂げてしまう。
これを持って、真田昌幸は、武藤家から、真田家に復帰し、真田昌幸となる。
尚、真田昌幸には、信昌(信尹/昌春)、高勝、2名の弟がいる。

長篠の戦いで敗れた武田家は、徐々に領地を失い、没落の一途をたどる。
織田の武田攻めに脅威を感じた武田勝頼は、祖父・武田信虎が築き、父・信玄も本拠とした武田氏館(通称・躑躅ヶ崎館)を捨てるつもりで、近くに新府城築城を真田昌幸に命じる。
しかし、いざ、織田信長から家督を継いだ、織田信忠が甲府に攻め込もうという段になると、新府城には籠らず、小山田信茂を進言を受け入れ、小山田信茂の居城・岩殿山城へと向かうが、いざ、入城しようとすると小山田信茂は拒否。反旗を翻した。
これにより、行先を失った武田勝頼は、織田軍に追いつかれ討ち死に。
織田に寝返ったハズの小山田信茂は「裏切り者は要らぬ」と織田信長に切られた。

その頃、真田昌幸は、元々、居城・岩櫃城に武田勝頼を迎え入れる手筈になっていたため、準備のため岩櫃城にいた。
しかし、前述の事情で主家を失った真田昌幸は、織田信長に出仕し、織田家臣にして、関東管領になる滝川一益の麾下に入る。

それも束の間、京都で本能寺の変が起こると、織田家は分裂する。
関東管領であり、真田昌幸の上司だった滝川一益は、甲斐信濃が不安定な情勢のままだったこともあり、ほうほうの体で織田家の清須に帰ってしまう。

すると、織田家の真田支配は、有耶無耶になってしまう。
そうなれば、真田家のある信濃は、北條、上杉、徳川の狩り場になる。
そこで、真田昌幸は、上杉が攻めてくるとなれば、上杉の麾下に入り、北條が攻めてくるとなれば、北條の麾下に入り、徳川の誘いがあれば、徳川に付くなどして、従属先をコロコロと変えるようになる。
そうこうしながら、本拠・上田城を築城する。



--- つづく ---

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2016年01月23日

戦国・真田概論 その1 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

真田幸隆・昌幸墓所.JPG信州・長谷寺、真田幸隆夫妻、真田昌幸墓所


まずはじめに。
「真田幸村」という人は存在しません。
ですから、当然、文献にも登場はしません。
同じく、真田十勇士も存在しません。
「真田幸村」の伝説とられる人物は、正しくは、「真田信繁」といいます。
真田幸村と真田十勇士は、江戸時代に江戸幕府への不満が高まった頃、判官贔屓で徳川家康を窮地に追い込んだ人物として歌舞伎などで真田信繁を扱いたかったものの実在の人物は扱えなかったため、名を変え架空の人物とする必要があったため、作られたヒーローでした。
それが、通名となり、あたか実在の人物となったのが始まりです。

真田家が歴史の表舞台に登場するのは、没落の悲劇から。
海野平の戦いが起こった。
真田氏は、そもそも、現在も残る海野宿あたりを拠点とする海野氏の一族。
他に軽井沢に近い、浅間山の噴火の悲劇があった鎌原観音の周辺を拠点とする鎌原氏も海野氏の一族。
この海野氏の一族と、村上氏(義清)、武田氏、諏訪氏の連合軍が海野平で激突した海野平の戦い。
この戦いで、海野氏は散々に敗れ、没落する。
これにより、真田幸隆は、浪々の身となる。
そして、出仕したのが、父・信虎を追い出した武田晴信、後の信玄。
信玄は、村上義清と対立。攻めあぐんでいた。
海野平の戦いで、村上義清に恨みを持つ真田幸隆は、村上征伐の先方になる。
村上義清の守る戸石城に狙いを定め、智謀を持って戸石崩れを起こし村上義清を落とし敗走させる。
敗走した村上義清は、上杉謙信の元に身を寄せ、これが後の川中島の戦いの切っ掛けの一つとなる。
村上義清敗走により、真田幸隆及び真田氏は、武田信玄に重用されるようになる。
その最たるは、信玄に仕えた名将・武田二十四将の内、親子二代で含まれるのは、真田氏(幸隆、長男・信綱)のみである。

--- つづく ---

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posted by 三度笠 at 21:47| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月15日

難攻不落のはずだった?!武田最後の城、新府城を旅する 山梨県韮崎市

新府城01.JPG

1582年。
勢いにのる織田信忠率いる織田軍は、甲府に向けて進行した。
織田軍の侵攻に備えようと、武田信玄から家督を継いだ武田勝頼は、真田昌幸に築城を命じた。
これが、武田最後の砦となるはずだった、この新府城。
築城開始から約8ヶ月。
城は未完成であったが、防御力は整えた。
しかしながら、武田勝頼は、新府城には籠らないことを決断。
真田昌幸は、ならばと、自身が治める岩櫃城へ落ちることを進めるが、小山田信茂が勧める岩殿山城へと落ちることを決断したのであったが。。。
岩殿山城に入城しようとする武田勝頼を、小山田信茂は、織田方に寝返り拒否。
行先を失った武田勝頼は、織田軍に攻め立てられ落命。
武田勝頼を拒否した小山田信茂であったが、「主君を裏切るような者は信じられぬ」と小山田信茂を処刑した。
一方、武田勝頼を迎え入れることが出来なかった真田昌幸は生き残り、織田家臣滝川一益の傘下に入り、いよいよ、歴史の表舞台にでるのである。。。

新府城は、武田信虎、信玄、勝頼と3代にわたり居館とした甲府の躑躅ヶ崎館が城としての能力に欠けるため織田家侵攻に備えて武田勝頼が真田昌幸に命じて築城した。
築城は急務となり、8ヶ月間の昼夜兼行で急造され、更に、城下町も甲府から移転され、整えられていた。
しかしながら、戦局の悪化により、織田軍を引き受けることなく放棄し、焼き払われることになった。
名門武田氏の最後の城となるはずだった新府城であったが、織田信長横死後の徳川・北條の争いの時、徳川家康は、新府城に本陣を構え、5倍の兵力を持つ北条軍を押しのけ、防御力を証明した。

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【Yahoo!トラベル】


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【入館料】
なし


【開館時間】
自由


【名物】
ほうとう


【祭り】
武田の里まつり「武田陣没将士供養会・花火大会」(8月中旬)


【周辺情報】
藤武神社(城内)
武田神社(躑躅ヶ崎館跡)
甲府城
温泉


【交通】
JR中央本線・新府駅で下車し、線路をくぐって西へ。坂を登りつつ約10分。

中央自動車道・韮崎ICで降り、県道27号線(昇仙峡ライン)を西へ。
約1.2キロ進み、東中前信号で右折(北へ)、国道141号線(清里ライン)に入る。
約1.2キロ進み、絵見堂信号を左折(西へ)。
道なりに西方面に約1.2キロ進み、県道17号線(七里岩ライン)に入り、北西方面に約1.5キロ進んで左折。
左折の前に「新府城」の案内板があるので、見落とさないように。


[ここに地図が表示されます]



【Yahoo!トラベル】
posted by 三度笠 at 21:42| Comment(0) | お城記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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