2016年02月27日

戦国・真田概論 その6 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

沼田城石垣.JPG沼田城に僅かに残る石垣

慶長5年(1600年)7月17日。
のちの西軍・石田方から、真田昌幸に初めての密書が届く。

今度、家康が上杉景勝征伐のため出発したのは、誓詞や秀吉の遺言に背いて、秀頼を見捨てて出陣したことになるので、豊臣家の五奉行などが相談して、家康を討つべく挙兵した旨を告げ、秀吉の恩を忘れないでいたら、秀頼に忠節するように。

と、長束正家、増田長盛、前田玄以の3名連署の上、送ってきた。

家康に従軍していた、真田昌幸、信幸、信繁であったが、宇都宮の手前、犬伏で話し合い、袂を分かった。

真田昌幸、信繁は、石田方に味方するため、上田城へと戻った。
真田信幸は、徳川方にそのまま従軍した。
その信幸の忠節に喜んだ家康は、早速、信幸宛に、同年7月24日、更に7月27日にも書状を送っている。

父・真田昌幸の所領である小県(ちいさがた)は、没収するが、それをそのまま信幸に与える。その上、いかようにも取り立てる。

一方、真田昌幸・信繁親子は、17日から4日で下野に入り、石田方に付くという趣旨の書状を21日に発し、わずか6日後の27日に近江・佐和山(現在の彦根)の石田三成に届けている。
その石田三成は、真田昌幸に返信し、今回の挙兵について事前に昌幸に相談しなかったことを詫び、また、昌幸などの妻子は、信繁の義父・大谷吉継(石田三成の親友)が預かっていると連絡している。

慶長5年(1600年)8月24日。
徳川秀忠は、滞陣していた宇都宮を発って、東山道を進んだ。
表向きの理由は、反旗を翻した真田昌幸の上田城を攻めるためだった。
また、秀忠の23日付けの沼田にいる信幸宛の書状には、一緒に小県(上田城)を攻めるようにと申し送っている。
一方、徳川家康は、東海道を進むことになる。

少し前。
上田城に戻るべく、犬伏を発った真田昌幸は、途中、信幸の居城、沼田に向かう。
沼田城に逗留しようとする真田昌幸に対し、信幸の妻・小松は、開門を拒否。
さらに、昌幸が力づくで開門させようとするも、断固拒否。

昌幸は、孫の顔が見たいと懇願するも、小松は、尚も拒否した。

その小松の姿に、昌幸は「頼もしい。武士の妻はこうあって欲しい」と評した。

しかしながら、昌幸が上田へ帰る途中、正覚寺で休息していたところへ、小松が子供を連れて現れ、面会したという

--- つづく ---

クラブツーリズム
posted by 三度笠 at 21:00| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

戦国・真田概論 その5 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

生島足島神社2.JPG
真田家、特に、真田信幸、小松に縁の深い、信州・生島足島神社


豊臣秀吉が、小田原北条氏を攻めて天下統一を成し遂げた頃、真田昌幸の嫡男・真田信幸は真田家の運命を決める婚

姻する。
相手は、小松姫。
徳川四天王の一人、本多忠勝の娘であり、真田信幸に嫁ぐ際には、一度、徳川家康の養子となった後に嫁いでいる。
これにより、形の上では、真田信幸は、徳川家の親戚となった。

真田昌幸は、豊臣政権下では、大きな動きはなかった。
朝鮮の役でも、肥前名護屋に在陣したものの、渡海命令はなかった。

豊臣秀吉の隠居城・伏見城築城の際には、木曽材の運搬を命じられている。

その豊臣秀吉が逝去すると、関ヶ原の戦いが勃発する。

真田昌幸と真田信繁(幸村)は、石田三成率いる西軍についた。
真田信幸は、弟・真田昌親とともに、親戚たる徳川家康率いる東軍についた。


--- つづく ---

relux
posted by 三度笠 at 22:48| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月16日

首里城に行ってきました!

首里城.JPG
先日、首里城に行ってきました〜〜〜!
3回目の沖縄にして、初の沖縄観光でした(^^ゞ
これで、日本全国47都道府県でお城に行ったことになります!
やた!ヽ(=´▽`=)ノ
首里城については、後日、アップします!




沖縄観光にレンタカーは、必須です!【たびらい沖縄】





posted by 三度笠 at 19:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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