2016年03月30日

戦国・真田概論 その11 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

信繁兜.jpg


真田信繁が、大坂城の南、唯一の弱点補強のために真田丸を築くと、1614年の年の瀬になって、大阪冬の陣が始まる。
真田丸は、出城の形をとってはいたが、規模や防御力を考えると、大坂城の前に、もう一つ出城を造ったと考えるほうが良いようだ。
旧来の研究では、「三日月型の出丸」とされていたが、最近の研究では、形も、円形や四角形に近いと言われているようだ。

徳川軍は、当初から、5000〜6000の兵を擁するこの真田丸を攻略困難と考え、将軍・徳川秀忠は、軽率に攻撃をしないよう指示した。
そして、加賀の前田、越前の松平と大大名を配置し、真田丸の前に付城とするべく堀と土塁を築こうとしたが、その土木工事の間も、真田信繁は、大筒などで攻撃を繰り返し、兵士や人夫に多大な被害を与えた。
更に、真田信繁は、真田丸と付城の間の笹山から散々に鉄砲を放って作業を妨害し続けた。
そこでと、前田勢は、この笹山を急襲したが、笹山は、人を喰ったようにもぬけの殻。
そのさまを、真田信繁は嘲笑したという。
これに怒った前田勢は、真田丸に攻めかかったが、応戦が激しく、身動きが取れなくなり撤退した。

12月4日には、徳川方は、攻撃を開始し、塀に取り付くも、鉄砲を散々に放って応戦された。
塀に取り付いていた兵は次々に撃ち落とされ、堀に折り重なって戦死した。
堀は、死者で埋め尽くされたという。

大阪冬の陣での徳川方の死者は、一説では2万とも言われ、そのうちの5分の4は、真田丸攻防の際に出たとも言われている。

しかし、大坂方で唯一好戦したとも言える真田丸であったが、豊臣と徳川の講和により取り壊された。
同時に大坂城の堀も埋め立てられ、大坂城は、裸城となった。

豊臣方が講和に応じた原因は、本丸に籠る女性陣が、家康がイギリスから取り寄せていた大砲に怯えたからだという。
広大な大坂城であったが、そのイギリス製の大砲の弾が唯一届く場所があり、天守の壁を破壊し、天守内の女性が負傷死したという。

--- つづく ---






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2016年03月23日

戦国・真田概論 その10 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

四天王寺五重塔.JPG四天王寺五重塔。本文にはないが、真田信繁は、四天王寺方面で活躍した。


大阪城に入城した真田信繁と付き従う家臣の面々。
真田信繁は、野戦を主張するが受け入れられず、切り替えて、大坂城の南に「真田丸」を築くことを進言して受け入れられる。
一説には、元黒田家家臣・後藤又兵衛の口添えがあったからとも言われる。
ちなみに、この後藤又兵衛は、主であった黒田長政と折り合いが悪く、黒田家を出奔し、浪人となっていた。

話を逸らして、大坂城について少し語る。
現在の大阪とは違い、聖徳太子の時代の大阪(摂津)は、田舎であった。
しかし、聖徳太子の時代、中国との交易を増やそうとした時、海上ルートとして、聖徳太子は摂津に注目した。
中国から来る船に日本のレベルの高さを見せつけるために(正確には世界でも有数のレベルにあった当時の中国人に侮られてはいけないと)、現在も残る四天王寺を建立した。
当時の四天王寺は、海上を航行する船から、四天王寺の誇る大伽藍と五重塔が見えたという。
時が下って、戦国時代。
後に大坂城が建てられた場所は、本願寺顕如率いる石山本願寺があった。
この石山本願寺の攻略のために、織田信長は10年の歳月を費やした。
本願寺は、浅井、朝倉、武田信玄、足利将軍家、毛利家などと連携した。
織田信長の本願寺攻略は、この連携をひとつひとつ叩いていく形となっていた。
織田信長の有名な鉄甲船も、石山本願寺に物資、兵糧を運び入れる毛利水軍との戦いで用いられた。
織田信長は、長年の念願叶って石山本願寺を攻略したが、間もなく本能寺の変で横死してしまう。
これを切っ掛けに、織田家中で内乱が勃発したが、羽柴秀吉が主導権を握り、天下人への道を歩んでいく。
その中で、織田信長が攻略したまま手付かずになっていた石山本願寺に築城を開始する。
これが、後に大坂城と呼ばれるようになる。
摂津には、もともと、「大坂」と呼ばれる地はなかく、「小坂」と呼ばれる場所があった。
派手好きの秀吉は、この地を「小」から「大」に変え、「大坂」とした。
そして、築かれた城は、「大坂城」と呼ばれるようになった。
豊臣家滅亡後の大坂城は、豊臣時代の城は埋め立てられ、その上に徳川時代の大坂城が建てられた。
現在ある大坂城天守は、戦後に再建されたビルディングではあるが、そのデザインは、失われた豊臣時代を模したもの。
つまりは、徳川時代の大坂城の遺構の上に、現在の大阪城の天守が建てられていることになる。

真田信繁は、大坂城の南側が大坂城の唯一とも言える弱点と考え、真田丸を築く。
しかし、実際に真田丸があった場所は、現在は、不明となっている。
現在の真田山公園が有力とされていたが、それよりも僅かに西にある、現在の明星高校が、真田丸があった場所ではないかとの研究もされている。


真田丸は、大坂城の出丸であったと長く考えられていたが、その規模や機能から、出丸、つまり城の一部と言うよりは、独立した城としての機能があったとも考えられるようになった。

ともあれ、大坂城の出丸としての機能もあり、馬出丸としての機能も強い。
馬出丸は、武田流の築城術で用いられ、馬出丸、三日月丸とセットで作られる。
武田勝頼が最後の城とするために真田昌幸に作らせた新府城にもあると言われ、また、武田信虎、武田信玄、武田勝頼三代の居館であった躑躅ヶ崎館(武田氏館、現在の武田神社)の本来の入り口(JR甲府駅と対面する武田神社の入り口から左へ回ったところ)の先に、小さな馬出丸、三日月丸があったのではないかと、再現されている。


--- つづく ---






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2016年03月15日

戦国・真田概論 その9 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

大阪城.JPG天下の名城・大坂城。豊臣時代の城は、土の下に封印されたが、再建された天守は、豊臣時代のものがモチーフという。


名将と謳われた父・真田昌幸を失った、真田信繁。
真田昌幸が死去すると、昌幸を慕ってついてきた家臣は、信繁の兄・真田信之のもとに帰っていった。
真田信繁が幽閉されている九度山は人数が減って寂しくなった。
寂しくなったのは、人数だけではなく、信繁の懐具合も寂しくなった。
真田昌幸が死去し、兄・信之からの仕送りが減ったからだ。
真田信繁一家と少数の家臣の生活が困窮する中、大坂城の大野治長から、密使が来た。
徳川将軍家からの攻撃に備えて、真田信繁をスカウトにやってきたのだ。
真田信繁にとっては、突然の事だったか、或いは、既に豊臣家、徳川家の間の動きを知っていて、自らにも何かしらの動きがあるのではないかと思っていたのかと。

かくして、真田信繁は、大坂方からのスカウトに乗り、九度山を脱出し、大坂城へ馳せ参じることとなった。

大坂への脱出行には、色々な謎やルートが考えられている。
真田信繁を監視する目が少なかったのか、目溢しがあったのか、もしくは、真田昌幸が死去したことで、監視の目が減っていたのか。
そして、川を下っての脱出だったとも、山越えしての脱出だったとも。

ここで、2つのことについて触れておきたい。

まず、1つは、真田昌幸である。
武田家の家臣だった時代には、色々と戦功もあった。
その一つ、沼田城の攻略は、智謀を持ってのものであった。
沼田城を拠点とする沼田万鬼斎の一族を翻弄し、殺し合いをさせて奪った。
沼田城攻略の拠点とした小川城の攻略についても、智謀を使った。
正面攻撃のたぐいは、ほぼ無い。
徳川の大群を2度に渡って退却させた上田城での戦い。
これは、籠城戦での勝利で、徳川軍が、被害が甚大であったり、時間切れだったための、退却による勝利だ。
だから、単純な武力衝突で、どれだけのチカラがあるかどうかは未知数だ。
ちなみに、秀吉軍の一軍として、真田昌幸は、小田原北条攻めの際に、石田三成とともに忍城攻めに参加している。
名将・太田道灌とも関わる成田氏が守るこの城は、唯一、落城しなかった城である。

もう一つは、真田信繁自身のこと。
実は、上の上田合戦にしろ、記録の中で、真田昌幸、真田信之の活躍は華々しいが、実は、真田信繁についての記述は皆無なのだという。
真田信繁は、多くの時間を、人質として過ごし、実戦にはさほど参加していないのだという。
例えば、武田信玄、武田勝頼、上杉景勝、豊臣秀吉など。
そして、人柄としても、あまりパッとせず、大人しく、あまり自分を表現しないタイプだったともいう。

このような、真田信繁をスカウトに訪れたのは、豊臣家としても、藁をも縋る気持ちだったのか、はたまた、父・真田昌幸が徳川を撃退したという実績によるものだったのか。。。
もしくは、長い時間を大坂で人質生活を送っていたために、顔見知りも多かったからか?

とにかく、真田信繁のこのような性格は、人質生活が長いとこのような性格になりやすいらしい。

ところで、大坂への脱出行である。
九度山の多くの住人が、真田信繁とその家族、家臣を助け、協力したという。
脱出は、深夜から、未明に行われた。
脱出が行われたその日、監視の役人がやってきても、ほんの数時間前に脱出したのにも関わらず、
「もう何日も前に脱出した(追っても無駄だ)」と口裏を合わせたという。

江戸開府から、12年、関ヶ原から、15年。
金の採掘が盛んだった戦国時代のゴールドラッシュも終わり、徳川政権への不満も募っていた時代だったのかもしれない。

ともあれ、真田信繁一行は、見事、九度山を脱出し、大坂城へと入城した。
九度山から従った真田信繁の家臣は少数であったが、旧領や、兄・真田信之の元から辞した家臣などが大坂で合流した。

--- つづく ---


JTB
posted by 三度笠 at 19:18| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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