2016年06月27日

七難八苦を与えられてしまった山陰の勇・尼子家の月山富田城を旅する 島根県安来市

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「願わくは、我に七難八苦を与え給え」とは、尼子家家臣・山中鹿之助幸盛が言ったとされる言葉だ。
正直、滅多なことはいうもんじゃないと思う。

鎌倉時代、佐々木氏の城として始まった月山富田城。
1400年代の終わり頃、尼子経久がわずか7人で乗っ取ったことから、尼子氏の本拠城としての始まりだ。
以来、尼子氏は大きく発展し、山陰地方の大半を支配するようになり、西の大大名・大内氏と争うようになる。
戦国時代の下剋上の始まりを、伊勢新九郎こと北条早雲とする人もあるが、尼子経久の月山富田城乗っ取りの方が先で、これを戦国時代の下剋上のはじめと考える人もある。
この尼子氏と大内氏の間で揺れ動き、大内、尼子を滅ぼしてゆくことになるのが、安芸の国人・毛利元就だ。
毛利元就は、難攻不落で、しかも、標高が200メートル近い山全体を天然の要害とした月山富田城を攻めあぐねた。
毛利元就は、知略を働かせ、尼子家の内乱を誘発し、内部崩壊を持って、尼子家を弱体化させていった。
そんな折、「願わくは、我に七難八苦を与え給え」と、山中鹿之助は願った。
その願いが叶ってか、弱体化した尼子家への毛利元就の猛攻は凄まじく、とうとう、月山富田城は落城し、毛利の手に落ちる。
山中鹿之助は、捕らえられつつも、逃走し、再三にわたり毛利家へ挑戦するも、最後に頼った織田信長からの支援を受けきることができず、武将としての尼子家は完全に滅亡する。
しかしながら、尼子の血筋の者が、京都に出て豪商になったと聞いたこともある。

毛利家の城となった月山富田城であったが、毛利家は関ケ原戦を見誤り、大幅に減封されてしまい、月山富田城を手放すこととなる。
その後に入城したのは、堀尾氏であるが、江戸期にはそぐわない城として、月山富田城を廃城とした。
堀尾氏は、祟り?に見舞われながらも、近く松江に城を築いた。
これが、近年、国宝に指定された松江城だ。
松江城築城に当たっては、廃城となった月山富田城も資材として活かされた。
この時期、このように旧城からのリサイクルは当たり前のことであった。
こうして、廃城にはなったものの、月山富田城は、松江城の一部として、今も国宝として脈々と生き続けている。

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※かなりの山道になりますので、足元や、野生動物に気をつけましょう。


【入館料】
建物なし。
但、資料館あり。


【開城時間】
なし。


【関連人物】
佐々木義清
尼子経久
尼子晴久
尼子国久
尼子義久
山中鹿之助
毛利元就
吉川元春
堀尾吉晴


【名物】
日本海の魚介類


【祭り】
広瀬祇園祭(毎年7月中旬〜下旬)


【周辺情報】
市立歴史資料館
米子城
松江城
水木しげる記念館
水木しげるロード
美保神社
美保関灯台
境港
島根県立美術館
足立美術館
安来節演芸館
中海
大根島
由志園



【交通】
JR山陰本線・安来駅より、米子=広瀬線・広瀬バスターミナル行・市立病院前バス停下車か?

山陰道安来道路・安来ICを降りて、県道334号線を1.5キロほど西進。
山陰道安来道路の下の大きな十字路(交差点)を左折し、県道45号線に入る。
そのまま、川を渡り、大きな川に沿い、しながら、県道45号線を8.5キロほど進む。
新宮橋(飯梨川)を渡ってすぐ。
※市立歴史資料館を目印に。


[ここに地図が表示されます]







posted by 三度笠 at 22:36| Comment(0) | お城記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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