2016年04月18日

戦国・真田概論 その14 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)


真田・松代城.JPG
真田信之が移封され、幕末まで続いた真田家の松代城



その後の真田家。
大阪夏の陣で徳川方についた信之の真田家(信吉)は、大坂夏の陣で30人を超える有力家臣を失いながらも、30人に迫る大坂方の有力武将を打ち取り、めまぐるしい戦果をあげ、徳川家臣としての面目を保った。
関ヶ原以降、上田城を任され、城下の発展に力を注いでいた真田信之であったが、松代への移封となった。
その後の上田城は、真田時代のものは大方処分され、新たに作り直された。
松代城の前進は、武田信玄が上杉謙信と対峙するために川中島に造った海津城。
真田信之存命中にお家騒動が起こり、真田家は、松城10万石、沼田3万石に分裂する。
この時に、真田信之は立ち会ったが、それが終わった直後、93歳という当時としては異例の長命で死去した。
真田信之は、「最後の戦国武将」として人気があったともいう。
沼田3万石は、後に、一揆が起こり改易された。

松代藩真田家も、財政難に陥るが、恩田杢の差配により乗り切った。
あまり知られていないが、上杉家の上杉鷹山と並び称された。
松代藩真田家は、幕末まで続き、幕末には、希代の思想家・佐久間象山を排出し、吉田松陰などに影響を与え、後の討幕運動に繋がった。

大阪夏の陣で討ち死にした真田信繁ではあったが、「真田日の本一の兵」と島津に称され、武将としての人気が高まった。
真田信繁には、同じく大坂夏の陣で切腹した真田大助(幸昌)の他にも多く子があった。
正室だった大谷吉継の娘は、京都で死去したが、大谷吉継の娘との間にも受けた、真田大八は、伊達政宗の片腕だった片倉景綱に引き取られ、片倉守信を名乗り、仙台真田家の始祖となった。
真田信繁の多くの娘も片倉家に引き取られ、それぞれ嫁ぐなどしている。
片倉景綱から続く片倉家が領した白石城周辺には、真田信繁の娘の墓とされる墓が存在している。
仙台真田家も、幕末まで続いている。

真田信繁の活躍と、死を惜しむ声は、当初から続いた。
「真田日の本一の兵」と謳われたこともその一つであり、真田信繁が幼い秀頼の手を引き、大坂から逃れ、薩摩を経て、今のフィリピンなどへ逃れたと歌うものもあった。
真田信繁が、「真田幸村」と呼ばれるようになったのは、いつのことからかはわからない。
真田信繁が大坂城に入城した時から名乗ったとも言われるが、江戸時代の判官びいきがあったのかも知れない。
明治時代に成ると、真田幸村(信繁)の神出鬼没の戦い方から着想された「真田十勇士」が作られ、その頃から「真田幸村」となったのかも知れない。

真田信繁(幸村)の墓とされるものは、まるで、源義経のように各地にある。
そういえば、源義経も、平泉から逃れ、海を渡り、チンギス・ハーンになったとの伝説がある。
真田信之が領した松代には、第4次川中島の戦いで命を落とした武田信玄の弟・武田典厩信繁を供養するために建てられた「典厩寺」がある。
この寺に、同じ名前を名乗った真田信繁の墓もしくは供養塔が、真田信之の手によって、ひっそりと建てられたとの噂もある。


--- おしまい ---








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2016年04月10日

戦国・真田概論 その13 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)


真田信繁戦死の碑.JPG
四天王寺から通天閣方面に歩くと途中にある、真田信繁(幸村)戦死の地・安居神社にある戦死の碑



前日の反省により、豊臣方には、全軍統率を取り、突出しないようにと触れが出た。
しかし、それは叶わなかった。
真田信繁隊と行動を共にするはずだった毛利勝永が突出し、本多忠朝隊に鉄砲を打ちかける。
銃撃は次第に激しくなり、徳川方の本多忠朝は討ち死。
随行する、真田信繁の甥・真田信吉隊も散り散りになる。
しかし、統率が取れず、我先にと死に場所を探すような戦い方に、真田信繁は自らの運命も諦めた。
それでも、真田信繁は、豊臣秀頼の出馬に唯一の望みを賭け、息子の真田大助を走らせた。
その豊臣秀頼は、一旦は出馬を決め、準備に取り掛かった。
真田信繁の作戦は、豊臣秀頼の出馬により、豊臣恩顧の大名を動揺させる作戦だ。
しかし、徳川方から和議を持ちかけて来そうだとの情報が入り、取り止めてしまった。
こうして、真田信繁の作戦はまたしても取り上げられることはなく豊臣家の運命は決まった。
もちろん、徳川方に和議の意思などなく、この豊臣秀頼に出馬させない為の謀略であった。

一方で、戦場でも大変なことが起こっていた。
戦場に立つに当たって、裸城相手、しかも、兵力は3倍に近い、15万対5万5千。戦は長引かないとした家康は、食料は2-3日分でいいと言っていた。
ちなみに、通常の攻城戦でも、落城には3倍の兵力とされていた。
そんな状態だから、家康本陣の兵は、まさか自分たちが戦うなど露ほどにも思っていない。
そんな中、後方が混乱した。
背後から奇襲されるとの噂が広まった。
そこに、敗走兵がなだれ込み、さらに混乱が広まった。
その状態の中、真田信繁隊が、家康本陣に突入した。
家康本陣は大パニックを起こす。
真田信繁隊は、3度突撃を繰り返したが、徳川家康に肉薄するも、遂には首級をあげることができなかった。
3度突撃するうちに、真田兵は見る見る減り、家康本陣は立て直しに成功した。
力尽きた真田信繁は、安居神社の石に腰掛ける。
「真田信繁殿か?」と尋ねられ、「そうだ」と答えた後、続いて、「手柄に致せ」と自らの首を差し出し、49年の生涯を閉じた。

危うく命を落としかけた徳川家康は、真田家の元の主・武田信玄に死の淵へと追い立てられた、三方ヶ原の戦い以来の糞尿を漏らして逃げたとも言われる。

真田信繁の首級を差し出された徳川家康は、真田信繁の叔父である真田信尹が首実験をしたが、汚れ果てた死の形相では、分かりかねるといい、真田信繁の死を喧伝したい徳川家康の不興を買った。
しかし、それは、数度に及ぶ徳川との戦いを繰り広げた真田家の人としての意地だったのかも知れない。

一方、真田信繁の首級を上げた武士は、徳川家康に「激戦の果てにギリギリのところでようやく真田信繁の首級を上げた」と大袈裟に報告したところ「真田信繁ほどの男がお前など相手にするはずがない」と一喝した。
しかし、徳川家康は、きっちり、褒賞は渡している。

真田信繁討ち死に後に、大坂城は落城し、秀頼のそば近くにいた、真田信繁の嫡男・真田大助は、運命を共にする義理はないから落ちのびるように勧められたが、歴とした武将の作法で切腹して果てた。


--- つづく ---






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2016年04月06日

戦国・真田概論 その12 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

大坂城模型.JPG



豊臣、徳川が和議を結ぶと、和議の条件をわざと?拡大解釈した徳川方が、食料として食べ終わった後の牛馬の骨や食器、破壊した家屋、何でもかんでも投げ込んで、堀を埋め尽くした。
そんな作業の最中、真田信繁は、徳川方についている甥・真田信吉(真田信之の子、信之は病として出陣せず)や、叔父・真田信尹を会い、旧交を深めた。

また、その頃、真田信繁の活躍により痛い目にあった徳川方は、真田信繁のスカウト工作を試みていた。
確かに、徳川方の被害は、真田信繁によるものであるから、真田信繁を徳川方に引き込めば、戦力アップにも繋がる。
もしも、真田信繁を戦場に出さないとしても、真田信繁離脱後の豊臣方の戦力低下を考えれば、効果は充分。
しかしながら、真田信繁が徳川方に寝返ることはなかった。

講和がなり、講和の条件となった作業を終えると、徳川方は大坂から兵を引いた。

しかし、こうも堀を埋め立てられてはかなわんと、豊臣方は、間もなく堀の再建工事を始める。

それを嗅ぎつけて、徳川家康は、兵を動かし、、、春には大阪夏の陣が始まる。

大阪夏の陣の前の軍議で、真田信繁は、防御力が失われた大坂城を捨て、京都へ進軍し、伏見城を経て、天皇を抱え込んで、徳川方を朝敵とする作戦を発案した。

しかし、軍議は、大坂城を捨てること、大将・豊臣秀頼を野に出し危険に晒すことを嫌った。
この期に及んで、保守的から脱却することができなかった。
関ヶ原戦の時に、豊臣秀頼を大将に据えず、徳川家康を謀反人にしなかった同じ失敗を繰り返すことになった。

結局、この軍議で決まったことは、豊臣秀頼は大坂城を出ず、全軍を以って、徳川家康及び将軍・徳川秀忠の命を奪う作戦に絞られた。
こうして、徳川軍15万と豊臣軍5万5千は、大坂城の南側で激突を開始する。

塙直之、後藤又兵衛、薄田兼相、木村重成など、豊臣方の有力武将が次々と討ち死にしていく。
中でも、後藤又兵衛は、真田信繁と共同作戦を張る予定であったが、豊臣方の連絡が滞り、孤立し、伊達家の騎馬鉄砲隊を率いる片倉隊に討たれた。
後藤又兵衛との共同作戦に遅参した真田信繁は、この片倉隊と戦うことになる。
真田信繁隊3000は、見事、片倉隊を蹴散らした。
この時、真田信繁の嫡男・真田大助(幸昌)も手柄を上げたという。
こうして、真田信繁が善戦を繰り広げている最中に豊臣方は30000の兵が集まり、撤退を決定した。
この時、真田信繁は、渡辺糺とともに、殿を務め、追撃戦を仕掛けてこない徳川方に対し、「関東方は大群ではあるが男は誰一人とていない」と一喝したという。

そして翌日。
真田信繁は、運命の日を迎える。。。


--- つづく ---






posted by 三度笠 at 22:39| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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