真田信之が移封され、幕末まで続いた真田家の松代城
その後の真田家。
大阪夏の陣で徳川方についた信之の真田家(信吉)は、大坂夏の陣で30人を超える有力家臣を失いながらも、30人に迫る大坂方の有力武将を打ち取り、めまぐるしい戦果をあげ、徳川家臣としての面目を保った。
関ヶ原以降、上田城を任され、城下の発展に力を注いでいた真田信之であったが、松代への移封となった。
その後の上田城は、真田時代のものは大方処分され、新たに作り直された。
松代城の前進は、武田信玄が上杉謙信と対峙するために川中島に造った海津城。
真田信之存命中にお家騒動が起こり、真田家は、松城10万石、沼田3万石に分裂する。
この時に、真田信之は立ち会ったが、それが終わった直後、93歳という当時としては異例の長命で死去した。
真田信之は、「最後の戦国武将」として人気があったともいう。
沼田3万石は、後に、一揆が起こり改易された。
松代藩真田家も、財政難に陥るが、恩田杢の差配により乗り切った。
あまり知られていないが、上杉家の上杉鷹山と並び称された。
松代藩真田家は、幕末まで続き、幕末には、希代の思想家・佐久間象山を排出し、吉田松陰などに影響を与え、後の討幕運動に繋がった。
大阪夏の陣で討ち死にした真田信繁ではあったが、「真田日の本一の兵」と島津に称され、武将としての人気が高まった。
真田信繁には、同じく大坂夏の陣で切腹した真田大助(幸昌)の他にも多く子があった。
正室だった大谷吉継の娘は、京都で死去したが、大谷吉継の娘との間にも受けた、真田大八は、伊達政宗の片腕だった片倉景綱に引き取られ、片倉守信を名乗り、仙台真田家の始祖となった。
真田信繁の多くの娘も片倉家に引き取られ、それぞれ嫁ぐなどしている。
片倉景綱から続く片倉家が領した白石城周辺には、真田信繁の娘の墓とされる墓が存在している。
仙台真田家も、幕末まで続いている。
真田信繁の活躍と、死を惜しむ声は、当初から続いた。
「真田日の本一の兵」と謳われたこともその一つであり、真田信繁が幼い秀頼の手を引き、大坂から逃れ、薩摩を経て、今のフィリピンなどへ逃れたと歌うものもあった。
真田信繁が、「真田幸村」と呼ばれるようになったのは、いつのことからかはわからない。
真田信繁が大坂城に入城した時から名乗ったとも言われるが、江戸時代の判官びいきがあったのかも知れない。
明治時代に成ると、真田幸村(信繁)の神出鬼没の戦い方から着想された「真田十勇士」が作られ、その頃から「真田幸村」となったのかも知れない。
真田信繁(幸村)の墓とされるものは、まるで、源義経のように各地にある。
そういえば、源義経も、平泉から逃れ、海を渡り、チンギス・ハーンになったとの伝説がある。
真田信之が領した松代には、第4次川中島の戦いで命を落とした武田信玄の弟・武田典厩信繁を供養するために建てられた「典厩寺」がある。
この寺に、同じ名前を名乗った真田信繁の墓もしくは供養塔が、真田信之の手によって、ひっそりと建てられたとの噂もある。
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