2016年07月18日

名湯・道後温泉を見下ろす、伊予松山城を旅する 愛媛県松山市

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名湯・道後温泉を見下ろす名城・伊予松山城。
現存12天守のひとつとしても、数えられています。
幾度の火災に見舞われながらも、江戸時代に作られた天守は、今に伝えられています。
戦国時代には存在せず、戦国時代には、ほど近い湯築城を河野氏が支配していました。
この湯築城には、湯釜があり、道後温泉と深い関わりがあります。

松山城は、関ケ原の戦いの後、加藤嘉明が加増により、この地を領することになり、築城を指示したことに始まります。
しかし、残念ながら、加藤嘉明は、松山城完成前に転封となり、完成させることはできませんでした。
松山城を完成させたのは、後任となったの時代。
せっかく完成した松山城でしたが、1642年の松平氏の時代、創建当時5層だった天守は、3層に建て替えられました。
今に残る天守は、この時の3層天守です。

関ケ原戦の後から築城が始まり、江戸時代に完成した松山城ではありますが、松山城についてよく語られるのが、その防御の強力さと敵兵を欺くトリックについて。
大きな門を攻撃させておいて、その門の脇にこっそりと隠してる小さな門から、兵を出して後ろから攻撃させる。
はたまた、天守に向かって歩を進めているはずが、下り坂になってしまい、敵兵を疑心暗鬼にさせたり。
そんな防御のトリックが随所にみられる城でもあります。

現代人には少々、上るのが大変な平山城ではありますが、中腹までロープウエイやリフトで上がることもでき便利です。
松山城を歩いて疲れたら、道後温泉で疲れを癒してください。
松山城から道後温泉へは、坊ちゃん電車でどうぞ。


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松山城21.JPG加藤嘉明像


【入館料】
大人 510円
小人 150円
※リフト、ロープウエイを利用する場合は、セット券あり。
二之丸史跡庭園 大人200円、小人100円



【開館時間】
9時〜。閉館時間は季節により変動。概ね17時。
8月は17時半まで。12月1月は、16時半。
リフト、ロープウエイは、天守開館、閉館時間から、前後30分。



【関連人物】
加藤嘉明
蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)
加藤泰興
松平定行
松平勝善
正岡子規


【名物】
みかん。
坊ちゃん団子。
鯛めし。
海鮮。



【祭り】
松山春祭り(道後温泉祭り)3月。
松山春祭り(お城まつり)4月。
北条鹿島まつり5月。
道後温泉夏祭り8月。
松山祭り(野球拳/野球サンバ)8月。
トライアスロン中島大会8月。
俳句甲子園8月。
道後公園湯築城観月祭10月。
北条秋祭り10月。
松山秋祭り10月。
初子祭り(松山湯神社)1月。
椿まつり2月。



【周辺情報】
道後公園(湯築城跡)
坂の上の雲ミュージアム
子規記念博物館
道後温泉
浄瑠璃寺
西林寺
繁多寺
太山寺
八坂寺
浄土寺
石手寺
円明寺
今治城



【交通】
JR松山駅から、「道後温泉行き」市内電車で約10分、「大街道」下車徒歩5分。
松山市駅から、「道後温泉行き」「環状線大街道方面行き」市内電車で約6分、「大街道」下車徒歩5分。
道後温泉から、市内電車で約10分、「大街道」下車徒歩5分。「路線番号52」伊予鉄道路線バスで約5分、「西一万」下車徒歩3分。
松山空港から、「道後温泉駅前行き」リムジンバスで約30分、「大街道」下車徒歩5分。「路線番号52」伊予鉄道路線バスで約40分、「ロープウェイ前」下車徒歩0分。
松山観光港から、「道後温泉駅前行き」リムジンバスで約30分、「大街道」下車徒歩5分。
三津浜港から、「松山市駅行き」伊予鉄道路線バスで約40分「松山市駅」下車、市内電車で約6分「大街道」下車徒歩5分
松山自動車道・松山ICから、国道33号線(砥部道路)に入り、北へ。天山信号を右へ。800メートルほど進み、小坂信号を左折し、国道11号線に入る。そのまま2キロほど進み、勝山信号(路面電車線路と当たる)を左折。路面電車「大街道」からすぐ。
松山自動車道・伊予ICから、国道56号線(今治街道)に入り、北東方面に進む。市内に入り、西堀端交差点信号を左折し、国道11号線に入る。
路面電車沿いに進み、路面電車「大街道」からすぐ。


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posted by 三度笠 at 14:03| Comment(0) | お城記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

七難八苦を与えられてしまった山陰の勇・尼子家の月山富田城を旅する 島根県安来市

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「願わくは、我に七難八苦を与え給え」とは、尼子家家臣・山中鹿之助幸盛が言ったとされる言葉だ。
正直、滅多なことはいうもんじゃないと思う。

鎌倉時代、佐々木氏の城として始まった月山富田城。
1400年代の終わり頃、尼子経久がわずか7人で乗っ取ったことから、尼子氏の本拠城としての始まりだ。
以来、尼子氏は大きく発展し、山陰地方の大半を支配するようになり、西の大大名・大内氏と争うようになる。
戦国時代の下剋上の始まりを、伊勢新九郎こと北条早雲とする人もあるが、尼子経久の月山富田城乗っ取りの方が先で、これを戦国時代の下剋上のはじめと考える人もある。
この尼子氏と大内氏の間で揺れ動き、大内、尼子を滅ぼしてゆくことになるのが、安芸の国人・毛利元就だ。
毛利元就は、難攻不落で、しかも、標高が200メートル近い山全体を天然の要害とした月山富田城を攻めあぐねた。
毛利元就は、知略を働かせ、尼子家の内乱を誘発し、内部崩壊を持って、尼子家を弱体化させていった。
そんな折、「願わくは、我に七難八苦を与え給え」と、山中鹿之助は願った。
その願いが叶ってか、弱体化した尼子家への毛利元就の猛攻は凄まじく、とうとう、月山富田城は落城し、毛利の手に落ちる。
山中鹿之助は、捕らえられつつも、逃走し、再三にわたり毛利家へ挑戦するも、最後に頼った織田信長からの支援を受けきることができず、武将としての尼子家は完全に滅亡する。
しかしながら、尼子の血筋の者が、京都に出て豪商になったと聞いたこともある。

毛利家の城となった月山富田城であったが、毛利家は関ケ原戦を見誤り、大幅に減封されてしまい、月山富田城を手放すこととなる。
その後に入城したのは、堀尾氏であるが、江戸期にはそぐわない城として、月山富田城を廃城とした。
堀尾氏は、祟り?に見舞われながらも、近く松江に城を築いた。
これが、近年、国宝に指定された松江城だ。
松江城築城に当たっては、廃城となった月山富田城も資材として活かされた。
この時期、このように旧城からのリサイクルは当たり前のことであった。
こうして、廃城にはなったものの、月山富田城は、松江城の一部として、今も国宝として脈々と生き続けている。

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※かなりの山道になりますので、足元や、野生動物に気をつけましょう。


【入館料】
建物なし。
但、資料館あり。


【開城時間】
なし。


【関連人物】
佐々木義清
尼子経久
尼子晴久
尼子国久
尼子義久
山中鹿之助
毛利元就
吉川元春
堀尾吉晴


【名物】
日本海の魚介類


【祭り】
広瀬祇園祭(毎年7月中旬〜下旬)


【周辺情報】
市立歴史資料館
米子城
松江城
水木しげる記念館
水木しげるロード
美保神社
美保関灯台
境港
島根県立美術館
足立美術館
安来節演芸館
中海
大根島
由志園



【交通】
JR山陰本線・安来駅より、米子=広瀬線・広瀬バスターミナル行・市立病院前バス停下車か?

山陰道安来道路・安来ICを降りて、県道334号線を1.5キロほど西進。
山陰道安来道路の下の大きな十字路(交差点)を左折し、県道45号線に入る。
そのまま、川を渡り、大きな川に沿い、しながら、県道45号線を8.5キロほど進む。
新宮橋(飯梨川)を渡ってすぐ。
※市立歴史資料館を目印に。


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posted by 三度笠 at 22:36| Comment(0) | お城記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

2つの天守を持ちながら、完成までに2度も領主が替わった米子城を旅する 鳥取県米子市

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古くは、室町時代の応仁年間、山名氏によって築城されたと言われる米子城。
現在、城跡として残る米子城の始まりは、毛利元就の毛利氏に繋がる吉川広家による築城による。
1591年から築城が始まったものの、築城途中の1600年、関ヶ原の戦いが勃発する。
吉川氏含む毛利氏一族は、一応は、西軍に属したものの、「秀頼公をお守りする」として、当主・毛利輝元は3万の兵を擁しながらも大坂城にとどまり日和見してしまう。
更に、鳥取城築城中の吉川広家も、関ヶ原の戦場に出向いたものの、大群を率いながらも先頭には参加せず、西軍は、たった1日で敗れてしまう。
吉川家とともに、毛利両川体制の一翼を担うはずの小早川家(当主小早川秀秋は秀吉の甥)は、あろうことか東軍に寝返ってしまう。
この西軍の大敗により、毛利家は、大幅な減封を強いられ、米子城を築城中だった吉川広家は、岩国(今の山口県)に転封になってしまう。
※吉川広家により岩国城が作られるが、完成からわずか7年で破却。
建築途中の米子城は、秀吉政権下で三中老を務めた中村一氏の子・中村一忠が受け継ぐこととなった。
中村一忠は、米子城を完成させたものの、わずか20歳で早逝してしまい、城下町の整備中に大名としての中村家は断絶となってしまった。
その後は、加藤氏、池田氏と城主が変わり、のちに、池田氏の家老・荒尾氏が代々城を管理し、幕末まで続いた。
明治になり、廃城となった。

尚、米子城は、大変珍しく、天守と副天守の2つの天守があったとも言われ、天守は吉川氏が造り、副天守は高尾城(加賀?)からの移築であったという。

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米子城11.JPG古写真に残る米子城


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【入館料】
なし


【開館時間】
なし
※建物なし


【関連人物】
吉川広家
中村一忠
山名氏
加藤氏
池田氏
荒尾氏


【名物】
日本海の魚介類


【祭り】
がいな祭り(8月上旬)


【周辺情報】
米子市立山陰歴史館
月山富田城(広瀬・富田城)
水木しげる記念館
水木しげるロード
美保神社
美保関灯台
境港
足立美術館
安来節演芸館
中海
大根島
由志園


【交通】
JR米子駅を出て、県道28号線を北西へ進む。
800メートルほど進み、加茂町2丁目信号を左折。国道9号線に入る。
100メートルほど進み、久米町信号を右折し、湊山公園に入る。
湊山公園が、米子城址を含む。

山陰道安来道路・米子西ICを出て、国道9号線に入る。
陰田町信号を右折し、そのまま国道9号線を北上。
そのまま2キロほど進み、久米町信号を左折し、湊山公園に入る。
湊山公園が、米子城址を含む。



[ここに地図が表示されます]









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posted by 三度笠 at 23:11| Comment(0) | お城記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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