2016年04月12日

小田原城の桜風景


小田原城の桜20160410-09.JPG



小田原城天守と彩る桜です。
白亜の天守に、淡いピンクの桜は映えますねぇ♪



小田原城の桜20160410-08.JPG



小田原城の桜20160410-07.JPG



小田原城の桜20160410-10.JPG






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2016年04月10日

戦国・真田概論 その13 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)


真田信繁戦死の碑.JPG
四天王寺から通天閣方面に歩くと途中にある、真田信繁(幸村)戦死の地・安居神社にある戦死の碑



前日の反省により、豊臣方には、全軍統率を取り、突出しないようにと触れが出た。
しかし、それは叶わなかった。
真田信繁隊と行動を共にするはずだった毛利勝永が突出し、本多忠朝隊に鉄砲を打ちかける。
銃撃は次第に激しくなり、徳川方の本多忠朝は討ち死。
随行する、真田信繁の甥・真田信吉隊も散り散りになる。
しかし、統率が取れず、我先にと死に場所を探すような戦い方に、真田信繁は自らの運命も諦めた。
それでも、真田信繁は、豊臣秀頼の出馬に唯一の望みを賭け、息子の真田大助を走らせた。
その豊臣秀頼は、一旦は出馬を決め、準備に取り掛かった。
真田信繁の作戦は、豊臣秀頼の出馬により、豊臣恩顧の大名を動揺させる作戦だ。
しかし、徳川方から和議を持ちかけて来そうだとの情報が入り、取り止めてしまった。
こうして、真田信繁の作戦はまたしても取り上げられることはなく豊臣家の運命は決まった。
もちろん、徳川方に和議の意思などなく、この豊臣秀頼に出馬させない為の謀略であった。

一方で、戦場でも大変なことが起こっていた。
戦場に立つに当たって、裸城相手、しかも、兵力は3倍に近い、15万対5万5千。戦は長引かないとした家康は、食料は2-3日分でいいと言っていた。
ちなみに、通常の攻城戦でも、落城には3倍の兵力とされていた。
そんな状態だから、家康本陣の兵は、まさか自分たちが戦うなど露ほどにも思っていない。
そんな中、後方が混乱した。
背後から奇襲されるとの噂が広まった。
そこに、敗走兵がなだれ込み、さらに混乱が広まった。
その状態の中、真田信繁隊が、家康本陣に突入した。
家康本陣は大パニックを起こす。
真田信繁隊は、3度突撃を繰り返したが、徳川家康に肉薄するも、遂には首級をあげることができなかった。
3度突撃するうちに、真田兵は見る見る減り、家康本陣は立て直しに成功した。
力尽きた真田信繁は、安居神社の石に腰掛ける。
「真田信繁殿か?」と尋ねられ、「そうだ」と答えた後、続いて、「手柄に致せ」と自らの首を差し出し、49年の生涯を閉じた。

危うく命を落としかけた徳川家康は、真田家の元の主・武田信玄に死の淵へと追い立てられた、三方ヶ原の戦い以来の糞尿を漏らして逃げたとも言われる。

真田信繁の首級を差し出された徳川家康は、真田信繁の叔父である真田信尹が首実験をしたが、汚れ果てた死の形相では、分かりかねるといい、真田信繁の死を喧伝したい徳川家康の不興を買った。
しかし、それは、数度に及ぶ徳川との戦いを繰り広げた真田家の人としての意地だったのかも知れない。

一方、真田信繁の首級を上げた武士は、徳川家康に「激戦の果てにギリギリのところでようやく真田信繁の首級を上げた」と大袈裟に報告したところ「真田信繁ほどの男がお前など相手にするはずがない」と一喝した。
しかし、徳川家康は、きっちり、褒賞は渡している。

真田信繁討ち死に後に、大坂城は落城し、秀頼のそば近くにいた、真田信繁の嫡男・真田大助は、運命を共にする義理はないから落ちのびるように勧められたが、歴とした武将の作法で切腹して果てた。


--- つづく ---






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2016年04月06日

戦国・真田概論 その12 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

大坂城模型.JPG



豊臣、徳川が和議を結ぶと、和議の条件をわざと?拡大解釈した徳川方が、食料として食べ終わった後の牛馬の骨や食器、破壊した家屋、何でもかんでも投げ込んで、堀を埋め尽くした。
そんな作業の最中、真田信繁は、徳川方についている甥・真田信吉(真田信之の子、信之は病として出陣せず)や、叔父・真田信尹を会い、旧交を深めた。

また、その頃、真田信繁の活躍により痛い目にあった徳川方は、真田信繁のスカウト工作を試みていた。
確かに、徳川方の被害は、真田信繁によるものであるから、真田信繁を徳川方に引き込めば、戦力アップにも繋がる。
もしも、真田信繁を戦場に出さないとしても、真田信繁離脱後の豊臣方の戦力低下を考えれば、効果は充分。
しかしながら、真田信繁が徳川方に寝返ることはなかった。

講和がなり、講和の条件となった作業を終えると、徳川方は大坂から兵を引いた。

しかし、こうも堀を埋め立てられてはかなわんと、豊臣方は、間もなく堀の再建工事を始める。

それを嗅ぎつけて、徳川家康は、兵を動かし、、、春には大阪夏の陣が始まる。

大阪夏の陣の前の軍議で、真田信繁は、防御力が失われた大坂城を捨て、京都へ進軍し、伏見城を経て、天皇を抱え込んで、徳川方を朝敵とする作戦を発案した。

しかし、軍議は、大坂城を捨てること、大将・豊臣秀頼を野に出し危険に晒すことを嫌った。
この期に及んで、保守的から脱却することができなかった。
関ヶ原戦の時に、豊臣秀頼を大将に据えず、徳川家康を謀反人にしなかった同じ失敗を繰り返すことになった。

結局、この軍議で決まったことは、豊臣秀頼は大坂城を出ず、全軍を以って、徳川家康及び将軍・徳川秀忠の命を奪う作戦に絞られた。
こうして、徳川軍15万と豊臣軍5万5千は、大坂城の南側で激突を開始する。

塙直之、後藤又兵衛、薄田兼相、木村重成など、豊臣方の有力武将が次々と討ち死にしていく。
中でも、後藤又兵衛は、真田信繁と共同作戦を張る予定であったが、豊臣方の連絡が滞り、孤立し、伊達家の騎馬鉄砲隊を率いる片倉隊に討たれた。
後藤又兵衛との共同作戦に遅参した真田信繁は、この片倉隊と戦うことになる。
真田信繁隊3000は、見事、片倉隊を蹴散らした。
この時、真田信繁の嫡男・真田大助(幸昌)も手柄を上げたという。
こうして、真田信繁が善戦を繰り広げている最中に豊臣方は30000の兵が集まり、撤退を決定した。
この時、真田信繁は、渡辺糺とともに、殿を務め、追撃戦を仕掛けてこない徳川方に対し、「関東方は大群ではあるが男は誰一人とていない」と一喝したという。

そして翌日。
真田信繁は、運命の日を迎える。。。


--- つづく ---






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2016年03月30日

戦国・真田概論 その11 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

信繁兜.jpg


真田信繁が、大坂城の南、唯一の弱点補強のために真田丸を築くと、1614年の年の瀬になって、大阪冬の陣が始まる。
真田丸は、出城の形をとってはいたが、規模や防御力を考えると、大坂城の前に、もう一つ出城を造ったと考えるほうが良いようだ。
旧来の研究では、「三日月型の出丸」とされていたが、最近の研究では、形も、円形や四角形に近いと言われているようだ。

徳川軍は、当初から、5000〜6000の兵を擁するこの真田丸を攻略困難と考え、将軍・徳川秀忠は、軽率に攻撃をしないよう指示した。
そして、加賀の前田、越前の松平と大大名を配置し、真田丸の前に付城とするべく堀と土塁を築こうとしたが、その土木工事の間も、真田信繁は、大筒などで攻撃を繰り返し、兵士や人夫に多大な被害を与えた。
更に、真田信繁は、真田丸と付城の間の笹山から散々に鉄砲を放って作業を妨害し続けた。
そこでと、前田勢は、この笹山を急襲したが、笹山は、人を喰ったようにもぬけの殻。
そのさまを、真田信繁は嘲笑したという。
これに怒った前田勢は、真田丸に攻めかかったが、応戦が激しく、身動きが取れなくなり撤退した。

12月4日には、徳川方は、攻撃を開始し、塀に取り付くも、鉄砲を散々に放って応戦された。
塀に取り付いていた兵は次々に撃ち落とされ、堀に折り重なって戦死した。
堀は、死者で埋め尽くされたという。

大阪冬の陣での徳川方の死者は、一説では2万とも言われ、そのうちの5分の4は、真田丸攻防の際に出たとも言われている。

しかし、大坂方で唯一好戦したとも言える真田丸であったが、豊臣と徳川の講和により取り壊された。
同時に大坂城の堀も埋め立てられ、大坂城は、裸城となった。

豊臣方が講和に応じた原因は、本丸に籠る女性陣が、家康がイギリスから取り寄せていた大砲に怯えたからだという。
広大な大坂城であったが、そのイギリス製の大砲の弾が唯一届く場所があり、天守の壁を破壊し、天守内の女性が負傷死したという。

--- つづく ---






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2016年03月23日

戦国・真田概論 その10 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

四天王寺五重塔.JPG四天王寺五重塔。本文にはないが、真田信繁は、四天王寺方面で活躍した。


大阪城に入城した真田信繁と付き従う家臣の面々。
真田信繁は、野戦を主張するが受け入れられず、切り替えて、大坂城の南に「真田丸」を築くことを進言して受け入れられる。
一説には、元黒田家家臣・後藤又兵衛の口添えがあったからとも言われる。
ちなみに、この後藤又兵衛は、主であった黒田長政と折り合いが悪く、黒田家を出奔し、浪人となっていた。

話を逸らして、大坂城について少し語る。
現在の大阪とは違い、聖徳太子の時代の大阪(摂津)は、田舎であった。
しかし、聖徳太子の時代、中国との交易を増やそうとした時、海上ルートとして、聖徳太子は摂津に注目した。
中国から来る船に日本のレベルの高さを見せつけるために(正確には世界でも有数のレベルにあった当時の中国人に侮られてはいけないと)、現在も残る四天王寺を建立した。
当時の四天王寺は、海上を航行する船から、四天王寺の誇る大伽藍と五重塔が見えたという。
時が下って、戦国時代。
後に大坂城が建てられた場所は、本願寺顕如率いる石山本願寺があった。
この石山本願寺の攻略のために、織田信長は10年の歳月を費やした。
本願寺は、浅井、朝倉、武田信玄、足利将軍家、毛利家などと連携した。
織田信長の本願寺攻略は、この連携をひとつひとつ叩いていく形となっていた。
織田信長の有名な鉄甲船も、石山本願寺に物資、兵糧を運び入れる毛利水軍との戦いで用いられた。
織田信長は、長年の念願叶って石山本願寺を攻略したが、間もなく本能寺の変で横死してしまう。
これを切っ掛けに、織田家中で内乱が勃発したが、羽柴秀吉が主導権を握り、天下人への道を歩んでいく。
その中で、織田信長が攻略したまま手付かずになっていた石山本願寺に築城を開始する。
これが、後に大坂城と呼ばれるようになる。
摂津には、もともと、「大坂」と呼ばれる地はなかく、「小坂」と呼ばれる場所があった。
派手好きの秀吉は、この地を「小」から「大」に変え、「大坂」とした。
そして、築かれた城は、「大坂城」と呼ばれるようになった。
豊臣家滅亡後の大坂城は、豊臣時代の城は埋め立てられ、その上に徳川時代の大坂城が建てられた。
現在ある大坂城天守は、戦後に再建されたビルディングではあるが、そのデザインは、失われた豊臣時代を模したもの。
つまりは、徳川時代の大坂城の遺構の上に、現在の大阪城の天守が建てられていることになる。

真田信繁は、大坂城の南側が大坂城の唯一とも言える弱点と考え、真田丸を築く。
しかし、実際に真田丸があった場所は、現在は、不明となっている。
現在の真田山公園が有力とされていたが、それよりも僅かに西にある、現在の明星高校が、真田丸があった場所ではないかとの研究もされている。


真田丸は、大坂城の出丸であったと長く考えられていたが、その規模や機能から、出丸、つまり城の一部と言うよりは、独立した城としての機能があったとも考えられるようになった。

ともあれ、大坂城の出丸としての機能もあり、馬出丸としての機能も強い。
馬出丸は、武田流の築城術で用いられ、馬出丸、三日月丸とセットで作られる。
武田勝頼が最後の城とするために真田昌幸に作らせた新府城にもあると言われ、また、武田信虎、武田信玄、武田勝頼三代の居館であった躑躅ヶ崎館(武田氏館、現在の武田神社)の本来の入り口(JR甲府駅と対面する武田神社の入り口から左へ回ったところ)の先に、小さな馬出丸、三日月丸があったのではないかと、再現されている。


--- つづく ---






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2016年03月15日

戦国・真田概論 その9 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

大阪城.JPG天下の名城・大坂城。豊臣時代の城は、土の下に封印されたが、再建された天守は、豊臣時代のものがモチーフという。


名将と謳われた父・真田昌幸を失った、真田信繁。
真田昌幸が死去すると、昌幸を慕ってついてきた家臣は、信繁の兄・真田信之のもとに帰っていった。
真田信繁が幽閉されている九度山は人数が減って寂しくなった。
寂しくなったのは、人数だけではなく、信繁の懐具合も寂しくなった。
真田昌幸が死去し、兄・信之からの仕送りが減ったからだ。
真田信繁一家と少数の家臣の生活が困窮する中、大坂城の大野治長から、密使が来た。
徳川将軍家からの攻撃に備えて、真田信繁をスカウトにやってきたのだ。
真田信繁にとっては、突然の事だったか、或いは、既に豊臣家、徳川家の間の動きを知っていて、自らにも何かしらの動きがあるのではないかと思っていたのかと。

かくして、真田信繁は、大坂方からのスカウトに乗り、九度山を脱出し、大坂城へ馳せ参じることとなった。

大坂への脱出行には、色々な謎やルートが考えられている。
真田信繁を監視する目が少なかったのか、目溢しがあったのか、もしくは、真田昌幸が死去したことで、監視の目が減っていたのか。
そして、川を下っての脱出だったとも、山越えしての脱出だったとも。

ここで、2つのことについて触れておきたい。

まず、1つは、真田昌幸である。
武田家の家臣だった時代には、色々と戦功もあった。
その一つ、沼田城の攻略は、智謀を持ってのものであった。
沼田城を拠点とする沼田万鬼斎の一族を翻弄し、殺し合いをさせて奪った。
沼田城攻略の拠点とした小川城の攻略についても、智謀を使った。
正面攻撃のたぐいは、ほぼ無い。
徳川の大群を2度に渡って退却させた上田城での戦い。
これは、籠城戦での勝利で、徳川軍が、被害が甚大であったり、時間切れだったための、退却による勝利だ。
だから、単純な武力衝突で、どれだけのチカラがあるかどうかは未知数だ。
ちなみに、秀吉軍の一軍として、真田昌幸は、小田原北条攻めの際に、石田三成とともに忍城攻めに参加している。
名将・太田道灌とも関わる成田氏が守るこの城は、唯一、落城しなかった城である。

もう一つは、真田信繁自身のこと。
実は、上の上田合戦にしろ、記録の中で、真田昌幸、真田信之の活躍は華々しいが、実は、真田信繁についての記述は皆無なのだという。
真田信繁は、多くの時間を、人質として過ごし、実戦にはさほど参加していないのだという。
例えば、武田信玄、武田勝頼、上杉景勝、豊臣秀吉など。
そして、人柄としても、あまりパッとせず、大人しく、あまり自分を表現しないタイプだったともいう。

このような、真田信繁をスカウトに訪れたのは、豊臣家としても、藁をも縋る気持ちだったのか、はたまた、父・真田昌幸が徳川を撃退したという実績によるものだったのか。。。
もしくは、長い時間を大坂で人質生活を送っていたために、顔見知りも多かったからか?

とにかく、真田信繁のこのような性格は、人質生活が長いとこのような性格になりやすいらしい。

ところで、大坂への脱出行である。
九度山の多くの住人が、真田信繁とその家族、家臣を助け、協力したという。
脱出は、深夜から、未明に行われた。
脱出が行われたその日、監視の役人がやってきても、ほんの数時間前に脱出したのにも関わらず、
「もう何日も前に脱出した(追っても無駄だ)」と口裏を合わせたという。

江戸開府から、12年、関ヶ原から、15年。
金の採掘が盛んだった戦国時代のゴールドラッシュも終わり、徳川政権への不満も募っていた時代だったのかもしれない。

ともあれ、真田信繁一行は、見事、九度山を脱出し、大坂城へと入城した。
九度山から従った真田信繁の家臣は少数であったが、旧領や、兄・真田信之の元から辞した家臣などが大坂で合流した。

--- つづく ---


JTB
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2016年03月09日

戦国・真田概論 その8 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

六文銭.JPG


九度山に送られた、真田昌幸・信繁親子であったが、真田信繁の妻(西軍・石田三成の親友・大谷吉継の娘)も九度山に向かった。
反面、真田昌幸の妻は、子・真田信之のもとに身を寄せ、九度山に来ることはなかった。

九度山に閉じ込められた、真田昌幸・信繁親子の生活は、困窮を極め、真田信之と書簡のやり取りが残っているが、その多くは、金や酒の無心だった。

九度山時代に貧しい生活を改善しようと生まれたのが、真田紐と言われるが、その真田紐が現在・上田近辺で売られているのは、少しおかしい。
九度山に送られて以降は、上田に戻ることはなかった。

一方、上田領を得た真田信之であったが、徳川軍を2度に渡って苦しめた上田城が存続されることはなく、破却(破壊)命令が下り、破却した。
真田信之が、転封になった後、上田を領した仙石氏によって、上田城は再建されることになる。

九度山生活が10年を超えた頃、真田昌幸は失望のまま逝去した。
生前、九度山生活をともにした真田信繁に対し、真田昌幸は「お前では、天下は取れない」と言い残したとも言われる。

ともかく。
武田の名臣謳われ、信州の諸葛孔明と評された真田昌幸は、その名に相応しくない、晩年を困窮にあえぎ人生をを閉じた。

残された真田信繁以下、家族、家臣は、父のために送られていた兄からの資金が少なくなり、更に生活が困窮するようになる。

しかし、ある時。
思いも寄らない運命が真田信繁を迎え入れた。



--- つづく ---

クラブツーリズム
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2016年03月05日

戦国・真田概論 その7 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

真田石.JPG真田昌幸の自慢だった?上田城の真田石。


上田の真田昌幸・信繁親子を討つべく、東山道を進んだ徳川秀忠は、小諸城に入る。

徳川秀忠は、本多忠政、真田信幸を使者に、国分寺(上田城外)にて、真田昌幸と会見し、降伏勧告を行う。
真田昌幸は、「我に利なし」といって、降伏を意思を伝えた、、、かと思われた。

ところが、いつまで待っても、真田昌幸は開城をしない。
それどころか、「迎え撃つ準備ができた」と言ってきた。
こうして、徳川7000vs真田2000で真田が打ち勝った第一次上田合戦の再現を、徳川38000vs真田3000で行おうという、第二次上田合戦の幕が切って落とされた。

しかし、実のところ、真田昌幸の狙いは、上田を死守しつつ、徳川秀忠軍を徳川家康軍との合流に遅らせることこそ狙いであるから、開城を匂わせて、開城せずにヤキモキさせ、迎え撃つと言い放っていきり立たせたという一連の流れで、真田昌幸にとっての上田合戦は、既に開始されていた。

徳川秀忠軍は、常套手段的に青田刈りを行うなどして、上田城から、真田軍を引きずり出して、数が多い方が圧倒的な有利となりうる野戦に持ち込もうとさせるも振るわず、それどころか、青田刈りをしているところを背後から襲われ大混乱をきたすなど、更に翻弄されていく。

更に、第一次上田合戦でも行われた、神川を使っての作戦も実行し、またしても神川が、徳川秀忠軍を飲み込み、大量の死者を出した。

こうなってくると、徳川軍の兵たちには、厭戦気分が広がり、また、真田昌幸の作戦の恐ろしさも肌で感じるようになってくる。

反面、翻弄され続けている総大将・徳川秀忠は、怒り心頭に達し、尚も、攻撃命令は止めない。

そうこうしているうちに、徳川家康からは、上田攻めを早々のうちに切りあげ、西進して合流するようにと命令が来る。

徳川秀忠は、慌てて、在陣していた小諸城を出立したが、結局、関ヶ原戦には、間に合わなかった。
徳川家康本隊・30000に対して、徳川秀忠が預けられていた軍は、38000。
関ヶ原戦での布陣は、徳川家康率いる東軍の兵力は、石田三成率いる西軍より、やや劣るといい、近代になって、布陣を見た、フランス(?)の将校は、「(この布陣なら)西軍が負けるはずがない」という状況だった。
もしも、戦前の根回しが失敗し、西軍から離反する者がいなかったら、徳川秀忠軍の遅参によって歴史が大きく変わっていたかも知れない。
しかしながら、関ヶ原戦で、東軍が勝ったことで、のちに真田信繁が活躍する場が生まれることとなった。

ともあれ、徳川秀忠軍が遅参したにも関わらず、関ヶ原戦は、東軍・徳川家康が、たった1日で勝利を治めた。
これにより、徳川秀忠軍38000を遅参させた功績を作りながらも、真田昌幸は、敗軍の将となり、高野山の麓・九度山に、真田信繁と共に配流されることとなった。
その裏には、真田信幸による、真田昌幸・信繁親子の助命嘆願があった。

尚、真田信幸は、当初の約束通り、関ヶ原戦後、自身の沼田領に加え、父の旧領・上田なども与えられ、合計95000石となった。
そして、真田信幸は、父からの諱・「幸」を捨て、「真田信之」と改名した。

--- つづく ---

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2016年02月27日

戦国・真田概論 その6 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

沼田城石垣.JPG沼田城に僅かに残る石垣

慶長5年(1600年)7月17日。
のちの西軍・石田方から、真田昌幸に初めての密書が届く。

今度、家康が上杉景勝征伐のため出発したのは、誓詞や秀吉の遺言に背いて、秀頼を見捨てて出陣したことになるので、豊臣家の五奉行などが相談して、家康を討つべく挙兵した旨を告げ、秀吉の恩を忘れないでいたら、秀頼に忠節するように。

と、長束正家、増田長盛、前田玄以の3名連署の上、送ってきた。

家康に従軍していた、真田昌幸、信幸、信繁であったが、宇都宮の手前、犬伏で話し合い、袂を分かった。

真田昌幸、信繁は、石田方に味方するため、上田城へと戻った。
真田信幸は、徳川方にそのまま従軍した。
その信幸の忠節に喜んだ家康は、早速、信幸宛に、同年7月24日、更に7月27日にも書状を送っている。

父・真田昌幸の所領である小県(ちいさがた)は、没収するが、それをそのまま信幸に与える。その上、いかようにも取り立てる。

一方、真田昌幸・信繁親子は、17日から4日で下野に入り、石田方に付くという趣旨の書状を21日に発し、わずか6日後の27日に近江・佐和山(現在の彦根)の石田三成に届けている。
その石田三成は、真田昌幸に返信し、今回の挙兵について事前に昌幸に相談しなかったことを詫び、また、昌幸などの妻子は、信繁の義父・大谷吉継(石田三成の親友)が預かっていると連絡している。

慶長5年(1600年)8月24日。
徳川秀忠は、滞陣していた宇都宮を発って、東山道を進んだ。
表向きの理由は、反旗を翻した真田昌幸の上田城を攻めるためだった。
また、秀忠の23日付けの沼田にいる信幸宛の書状には、一緒に小県(上田城)を攻めるようにと申し送っている。
一方、徳川家康は、東海道を進むことになる。

少し前。
上田城に戻るべく、犬伏を発った真田昌幸は、途中、信幸の居城、沼田に向かう。
沼田城に逗留しようとする真田昌幸に対し、信幸の妻・小松は、開門を拒否。
さらに、昌幸が力づくで開門させようとするも、断固拒否。

昌幸は、孫の顔が見たいと懇願するも、小松は、尚も拒否した。

その小松の姿に、昌幸は「頼もしい。武士の妻はこうあって欲しい」と評した。

しかしながら、昌幸が上田へ帰る途中、正覚寺で休息していたところへ、小松が子供を連れて現れ、面会したという

--- つづく ---

クラブツーリズム
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2016年02月21日

戦国・真田概論 その5 真田幸隆・真田昌幸・真田信之・真田信繁(幸村)

生島足島神社2.JPG
真田家、特に、真田信幸、小松に縁の深い、信州・生島足島神社


豊臣秀吉が、小田原北条氏を攻めて天下統一を成し遂げた頃、真田昌幸の嫡男・真田信幸は真田家の運命を決める婚

姻する。
相手は、小松姫。
徳川四天王の一人、本多忠勝の娘であり、真田信幸に嫁ぐ際には、一度、徳川家康の養子となった後に嫁いでいる。
これにより、形の上では、真田信幸は、徳川家の親戚となった。

真田昌幸は、豊臣政権下では、大きな動きはなかった。
朝鮮の役でも、肥前名護屋に在陣したものの、渡海命令はなかった。

豊臣秀吉の隠居城・伏見城築城の際には、木曽材の運搬を命じられている。

その豊臣秀吉が逝去すると、関ヶ原の戦いが勃発する。

真田昌幸と真田信繁(幸村)は、石田三成率いる西軍についた。
真田信幸は、弟・真田昌親とともに、親戚たる徳川家康率いる東軍についた。


--- つづく ---

relux
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